空白が生まれる

砂の部屋ができ、友人や知り合いを招き始めた。すると、そこから口伝えに広まっていき、気づいた頃には数百の人が訪れるようになっていた。
人々は砂に触りながら、各々に思い浮かべたことを話し出す。ある人は「生まれ育った町の海辺を思い出す」と言い、またある人は「山で焚き火をしているようだ」と言った。子供の頃に遊んだ公園を思い出す人もいれば、「宇宙にいるみたいだ」と思い浮かべる人もいた。

砂の上には何もない。
だけど、無心で砂に触れているうちに、人はそこに何かを投影し始める。その風景は、海や山、森や湖、公園や宇宙、生まれる前の世界から死後の世界まで多岐に渡った。

砂を敷くことで、世界に空白が生まれる。
その空白に触れると、一人ひとりの内側から様々なイメージが湧いてくる。想像であり創造のはじまりが、そこにあるように感じられた。

その時、『白』という本に書かれた一節を思い出す。

” 白は時に「空白」を意味する。色彩の不在としての白の概念は、そのまま不在性そのものの象徴へと発展する。しかしこの空白は、「無」や「エネルギーの不在」ではなく、むしろ未来に充実した中身が満たされるべき「機前の可能性」として示される場合が多く、そのような白の運用はコミュニケーションに強い力を生み出す。空っぽの器には何も入っていないが、これを無価値と見ず、何かが入る「予兆」と見立てる創造性がエンプティネスに力を与える。 ”
『白』原研哉 著

なんでもありすぎる世界において、何かを作りだすことだけでなく何もない空白を生み出すことも、一つの創造のかたちなのかもしれない。

砂の部屋で起こることと本の一節が交わった時、私の中で「ない」ことへの空虚さは、可能性をもった空白へと昇華されていった。