
あそてん
飼っている猫が、部屋中にあるものを勝手におもちゃにして遊んでいく。
あるときには、部屋に落ちていたピンポン球を見つけ、サッカー選手のように前足で転がし、気づいた頃には玄関の片隅にある排水口の穴にゴールを決めていた。
その姿は見えなくても、猫の足捌きに合わせて移動するピンポン球の「コン、コン」という音が、そのプレーを想像させる。
あるときには、部屋に落ちていたピンポン球を見つけ、サッカー選手のように前足で転がし、気づいた頃には玄関の片隅にある排水口の穴にゴールを決めていた。
その姿は見えなくても、猫の足捌きに合わせて移動するピンポン球の「コン、コン」という音が、そのプレーを想像させる。
その音を聞いていると、家全体がコリントゲームのフィールドになったように感じられた。
私はそんな光景を目の当たりにするたびに、「お前は遊びの天才だな」と褒めながら猫を撫でていた。
「遊びの天才」は、次第に「あそてん」と略された。少し間の抜けた音の響きが、力が抜けてちょうどいい。
天才とは本来、高尚なものではなく、自然体を示す言葉なんだろう。
「あそてん」「あそてん」
何度もそう言っているうちに、それは「私が求めていたもの」ではないかと思い始めてきた。
私は遊びの天才になりたかったのだと、そう気づいた瞬間、古くから自分の奥底にあった祈りに触れたような感じがした。
2000年初期、似たような形の高層マンションが立ち並ぶベッドタウン。
小学生の私は、まだオートロックが導入される前のマンションの一階から四階までを使い、垂直軸で鬼ごっこをしていた。
ビルのよくわからない隙間をカフェみたいに使ったり、拾った枝やダンボールで工作していた。
公園や遊具もたくさんあったけれど、私は街にあるものをおもちゃにして遊ぶことが好きだった。
そんなときの私は、たしかに「あそてん」であった。
与えられたおもちゃで遊ぶだけでなく、おもちゃにして遊んでいくことができれば、部屋中が、世界中が、遊び場であることに気付かされる。
世界が大きなおもちゃ箱に見えたなら、どんなに楽しいことだろう。