第一章
「私」をほどく
悩みの多くは、自分自身に対する思い込みから始まっている。

人からどう見られているか、どんな振る舞いを求められているか。
そうした周囲との関係のなかで、気づかぬうちに「こうあるべき」という像が自分の中にかたちづくられていく。
その無自覚な前提を抱えたままでは、どれだけ考え続けても思考は絡まり、出口を見失ってしまう。

役割や立場、期待やイメージ。「私」だと思っていたものを少しずつほどいていくことで、その奥にひそんでいた声が、静かに聴こえ始めてくる。

この章では、仕事探しをきっかけに「自分のやりたいことがわからない」と悩むエスさんが、外から見えている自分の印象をほどき、ノートに映し出された価値観をもとに、自らを語り直していく過程をたどっていく。
Prologue
なにかあるはずなのに、うまく答えられない
「学生のころから、やりたいことをやってきたつもりでした。だけど、いざ聞かれるとうまく答えられなくて…。一応、その場ではなんとか言葉にするんですけど、どれもなんだかしっくりこないんですよね。それでだんだん考えていたら、そもそも自分がやりたいことって何だろうなって。わからなくなってきちゃったんです。」
エスさんは、そう語った。
学生期間を終え、仕事を探す時期がさしかかったとき、何度となく問われた「やりたいことは何か」という問いに悩みを抱えていたエスさん。
自分の中には「何かがある」はずなのに、それを言葉にしたときにギャップを感じてしまう。そうした感覚のずれに、居心地の悪さを感じていた。
Reading 1
「誰とでも仲良くなれる」ことへの違和感
ドロップノートは、「ドロップ」と呼ばれる紙のかけらに、思い浮かんだことをひたすら書き出すことから始まる。
書き出されたドロップには、人それぞれの偏りが自然とにじみ出る。その偏りにこそ、その人ならではの価値観や世界観が映し出されていく。

そして、リーディングを始める前に、ノートを眺めて「なんだか気になる」と感じたドロップのそばに、目印としてストーンを一〜三個、好きな数を置いてもらう。
このときに大切なのは、あまり深く考えすぎず、直感に従って手を動かすこと。
ドロップだけでなく、ストーンも合わせて置くことで、ノートのなかに重心が生まれ、ノートをよみ始めるときのきっかけになる。
エスさんのノートには、『熱海』『風』『誰とでも仲良くなれる』というドロップにストーンが置かれていた。

「ストーンを置いたところについて、思い浮かんだことを聞いてもいいですか?」
「はい。『熱海』は、昔アルバイトで働いていた土地で、今でも大好きな場所なんです。」
「エスさんのノートには、ほかにも場所にまつわるドロップが多いですよね。」
「そうですね。ホッとするところを思い浮かべたら自然とそうなったのかもしれません。」
「他にもノートに書かれている土地の名前は、実際に行ったことがある場所なんですか?」
「はい。」
「それは、もとから好きだった場所というよりも、行ってから好きなった場所なんですか?」
「そうですね。これまでに旅をしたところだったり、仲の良い人が住んでいる場所だったり。なんでもなかった土地でも、そこで誰かとの思い出ができると、特別な場所になるんです。」
「なるほど。エスさんのノートは、パッと見た時に、人の気配が感じられるドロップが多く目に入る印象を受けました。『家族』や『友達』といったドロップや、人が暮らす土地の名前のドロップなど。それが、ノート全体から感じられるあたたかさに繋がっているのかなって。誰かとの時間を大切にしている印象を受けます。」
「特別に意識はしていなかったけど、昔から人と一緒にいる場所や時間が好きなんですよね。」
「そんななかで、もうひとつ感じたことは、『星』とか『森を歩く』とか『ひとり』みたいな、どこか今の世界から少し離れたような場所を感じるドロップもあるんですよね。そこには、どんな印象が浮かびますか?」
「たまに、ひとりでふーって息を抜く時間が欲しくなるんですよね。風みたいにどこか遠くに飛んでいきたくなるというか。別に疲れるってわけではないんですけど、そういうところに惹かれてしまう時があるんです。特に、あんまり合わない人とか苦手な人と一緒にいる時間が長いときとかに。さっき、「人と一緒にいるのが好き」って言った直後に矛盾してるかもしれないですけど。」
「それは矛盾というよりも、ただ映している側面が違うだけだと思いますよ。どちらもエスさんの中に自然に共にあるものなんだと思います。」
「たしかに、どちらも私の一部なんだと思います。」
「他にも、『誰とでも仲良くなれる』ってドロップにストーンを置いてますね。」
「周りの人たちからそう言われることが多かったので。だけど、ドロップに書いてみると、なんだか少し違和感があるような気がして…。『誰とでも仲良くなれる』って本当かなって。」
「誰とでも仲良くなれることって、誰とでも仲良くなりたいということとは、また違いますよね。きっと、エスさんは誰とでもうまくやっていけるんだと思います。少なくとも、周りの人から見たらそう見える。だけど、今のエスさんの声を聴いてると、どこかで「誰でもいいわけじゃないんだぞ」って印象も受けるんですよね。」
「あ……たしかに。ずっとそこに違和感があったのかもしれない。「誰とでも」というより、むしろ「選んでいる」というか、大事にしています。「人を選んでいる」って言うと、少し聞こえが悪いかもしれないですけど…」
「だけど、今の声には、エスさんの意志のようなものを感じましたよ。そこに何かあるのかもしれません。」
「なんだか話していたら、さらに気になってきました。これまでとりあえず「誰とでも仲良くなれます」って自分の長所として言ってきたけれど、今はちょっと違和感があります。」
「そうしたら、いま話したことも含めて、またノートに向き合ってみてください。」
「はい、そうしてみます。」

・・・

旅が好きで、さまざまな土地や風土、そしてそこで出会う人との交流に喜びを感じていたエスさんは、周囲から「誰とでも仲良くなれる」と評されることが多かった。
けれども、ノートに置かれたドロップの偏りから浮かび上がってきた感覚に向き合うなかで、その言葉に対する違和感が芽生えてくる。
それは、他者から与えられた言葉に委ねられていた自己像を、自らの感覚によって語り直していく一歩となる。
Reading 2
自分の「色」に触れる
エスさんのノートには、『私の色を感じたい』『水色』というドロップが追加されていた。
「再びノートと向き合ってみて、何か変化はありましたか?」
「さっき、「人を選んでいる」って言ったことが気になってしまって…。なんだか怖い言葉ですよね、「人を選ぶ」って。今まで、それはよくないことだと思っていたんですけど、今日は向き合ってみたいなって思ったんです。」
「怖いという感情は、これまで歩いてきた道から外れることで起こるものです。その感情をノートに書けた時点で、向き合える準備はすでにできているのだと思います。」
「はい。周りからは誰とでも合わせられるように見られがちなんですけど、実際はそんなことはなくて、ちょっと無理して合わせているときもあったなって思うんです。でも、そうしていると、自分がないんじゃないかなって思うようになってきて。だから『私の色を感じたい』ってドロップを足したんです。その色をもっと感じてみたくなったんです。」
「『水色』というドロップも、その色に関係しているんですか?」
「そうですね。自分の色ってなんだろうって考えたときに、ふと思い浮かんだのが『水色』でした。」
「その色には、どんなイメージを感じますか?」
「水とか風のような印象ですかね。周りと溶けあって流れているけど、よく見えない。」
「水や風って、透明なイメージもありますよね。奥の風景が透けて見えるような。『水色』というよりも「水の色」という感じで。」
「あ、その方がしっくりくるかもしれないです。」
「その水や風が透けた先にある風景は、どんなところだったらいいなと思いますか?」
「そうですね…。あったかい感じ。」
「それは、人があたたかいということですか?」
「それもあります。でも、その人たちのことを考えるとあたたかい気持ちになる方が近いですかね。「その人たちのために頑張ろう」って思える。」
「水や風って、色だけじゃなくて温度もありますよね。あたたかいとか、つめたいとか。そうやって、周りの環境によって、温度も変わるのかもしれません。」
「たしかに。私、周りの人たちの雰囲気に影響されやすいんです。ギスギスしたところにいると、釣られて気持ちが暗くなっちゃたりして。その場ではうまく合わせようとするけど、帰って一人になるとすごく疲れちゃうんです。」
「それこそ、冷たくなるイメージにも近いですね。」
「そうです、そうです。あ、そういうときに、さっきのリーディングでも出てきた『ひとり』になれるところとか、『森』とか『星』とかに行きたい気分になるのかも。」
「そこで、冷たくなった自分を休ませてあげるんですね。」
「はい。」
「だとすると、逆にあたたかくなれる場所もあるんですかね?」
「そうだと思います。」
「そしたら、次は、水や風になった自分が、どんなところにいたらあたたかくなれるのか。そのことについて感じてみてもいいのかもしれないですね。」

・・・

エスさんは、「人を選んでいる」と口にしたことをきっかけに、これまで避けてきた恐れと向き合っていく。
他者からの印象によって形づくられてきた自己像から離れ、自分の輪郭に光をあてはじめたエスさんからは、「私の色を感じたい」という思いが現れ、「水」や「風」に自己を投影していくことで、自分自身を再び捉え直していく。

ドロップに書き出されるのは、出来事や記憶だけではない。
ときに、自分を投影する象徴的なイメージがあらわれることがある。それらは、言葉になりきらない感覚を映し出し、曖昧だった自分の輪郭を探っていくヒントをもたらしてくれる。
Reading 3
「水」のような私のあり方
エスさんのノートは、『水色』というドロップを中心に、水の波紋のように広がっていた。
そして、その水面に映り込むように、これまで出会ってきた人や土地の名前が並べられていた。
「自由で軽やかな印象のノートになりましたね。」
「私もそう思います。水になったり風になったりすることを想像するのが楽しくて。なんだか急に自由に感じられたんです。」
「ノートからもそれが伝わってきますよ。」
「水って、反射するじゃないですか。光に当たるとキラキラと。「水になった自分はどんな姿か」って想像してみたときに、そこに、いろんな人たちの顔が映っているような気がしたんです。」
「人の顔?」
「はい。友達とか、家族とか、一緒のバイト先にいた人とか、仲の良かったお客さんとか。そういう人たちのことを思い浮かべると、あたたかくなれるんです。」
「エスさんのノートには、最初からずっと、人の気配がしていましたよね。」
「言われてみれば、たしかにそうでしたね。」
「そういう意味では、ずっと水面に人の姿が映っていたのかもしれない。」
「それなら嬉しいです。あと、改めて仕事についても考えてみたんです。ずっと「自分のやりたいことは何だろう?」って考えていたけど、それが少し違っていたのかもしれない。私にとっては、「誰のために働きたいのか」が大事なんだって気づいたんです。これまで、人と一緒に何かをすることは好きだったんですけど、自分のやりたいことっていうとピンとこなくて。でも、どんな人の顔を浮かべたいかなら、はっきりあるなってわかったんです。」
「まさに、エスさんが話していた「水」のようですね。水は自分から形を主張することはないけれど、周囲の環境によって、その姿や表情を変えていく。澄んでいるときもあれば、濁ってしまうときもある。」
「これまでは、それを「人に合わせてしまう」とか「誰かのために動きすぎてしまう」って、どこか否定的に捉えていたんです。でも、「水」のようなあり方だと思ったら、なんだかいいなって思えてきました。」
「エスさんにとって仕事を探すことも、「何がやりたいか」という意志を突き詰めるというより、「誰のために働きたいか」を探していく旅のように感じられますね。」
「私、これまで面接のときに、「この人は私を評価する人だ」って思って、すごく緊張していたんです。そうなると大抵、自然に話せなくなるんですよね。でも本当は、面接している人って「一緒に働くかもしれない人」なんですよね。それなら、むしろ話してみたい。」
「エスさんの水面に、これからどんな人たちが映るのか楽しみですね。」
「はい。これまでより、気持ちが楽に向き合えそうです。」

・・・

「やりたいことがわからない」と悩んでいたエスさんは、「誰とでも仲良くなれる」という他者からのイメージをほどくなかで、実は「誰と過ごしたいのか」を大切にしてきた自分に気づいていく。
その感覚を「水」という象徴に重ねることで、これまで否定的に捉えていた「人に合わせてしまう自分」を自然なあり方として受け入れられるようになっていった。
そして、「何がやりたいか」ではなく、「誰のために働きたいか」という問いへ視点が変わることで、エスさんの仕事探しは、自分を評価される場ではなく、これから出会うかもしれない人たちを知っていく旅路として、ひらかれていく。